きみと歩く時々走る

重複障がいのある息子とのこれまでと今

おじの葬儀と母との喧嘩3

私はよくなく子供で大人だった。

私の泣くは、言葉を飲み込み嗚咽を代わりにだし、悔しさ、怒り、悲しみをぐっと腹の底に沈め人から隠す行為だった。

 

毒を飲むようなもので、たいてい泣くと翌日熱を出して寝込んだ。

 

そうしなきゃならないくらい我が家には

言ってはいけない、感情を見せてはいけない、笑ってすまさなければならない事がたくさんあった。

だから私はずっとこうやって、幼い頃から何もかも飲み込んできた。

ようやく最近言葉に出来るようになり私は言った。

 

お母さんは私が苦しい話をしても

あらまあ、程度ですますよね?

性的いたずらされたときいたときでも、優しい言葉なんてなかった。

あらまあ。だった

 

いじめられてた話しのときは

あのときは私は生きさせるのに精一杯だった。

それだけ。

優しい言葉のひとつもなかったじゃない?

 

義妹のことも捨てられたから ?

今さら普通の家庭を望んでも無理?

 

わかってるよ、だからずっとだまっていままできたのよ。

今ようやく話せたの。

 

私は今のお母さんの話をしてる

 

おばへの不安もお母さんが話すからとも、責任持つとも言わない。離婚しないってことは責任もあるんだよ?

年金の分割や家や微々たる共有財産を当てにして

私は頑張った❗この権利を放棄したくない。

 

 

 

というけど。

私は家がまだ有るのか、借金があるんじゃないかと心配してるよ。

相続放棄すべき可能性が山のようにあると

思ってる。

そこまで権利にしがみつくなら責任もあると私は思ってるんだけど母には受け入れられないみたいだった。

苦労は十分した自負があるんだろうし、そこは認めているんだけど、でも母の行動や言葉には子供たちへの気遣いや愛や優しさが見えないのが辛いのだ。

 

優しい言葉をかけられなかったのはごめんなさい、いきなりのことに言葉が出ませんでした。

ただ、

先日のおばさんの葬儀は長男がもしゅでしたよ?

あそことうちは同じでしょ?

なんか、やっぱり…なのだ。

自己保身が必ずはいる

そして、子供を守る最善の策より、自分を守る最善の策なのだ

 

あそこの長男の受ける視線と弟の受ける視線はちがう。

わかるよね?

お母さんは自己防衛ばかりなんだよ。

私や弟は子供だからある程度は罵られても仕方ないと思うよ、でもお互いの配偶者は違うよ。特に義妹守るってそれは絶対だよ!

ある程度は筋を通してくれなきゃ私も出来ない

 

 

貴女にそもそもたのんでないでしょ?

 

 

え~!

嘘だと思ったけど意地悪に聞いた。

二人で火葬って弟と嫁やった?

弟とお母さんやった?

なら私は部外者なのにわるかったよ。

 

とんだお節介で非常に無粋だったし、いらんことばかりだよね、私は除外してあげるからね?心配しなくていいよっていう優しさを大きく誤解してたことになる。

 

どっちのつもり?

弟と話し合うときにお母さんの意思として伝えるから。

 

 

弟とお母さんです。

お母さん一人で出来ることならば、それでもいいです

でも、私が家を出たときと言われてることがまるでちがいます。お母さんはなにもするな、言うなといわれましたよ。ずっと守ってきたのに。老いては子に従えだと思いました。

 

ちがうよ、あの時は洗脳みたいになってたよね?勝手にかえると死んじゃってたよ?

だから弟はああいったんだよ。

 

わかってるよ、でも奴隷として生きる方が落ち着きます。まだ洗脳はとけません

 

わたしは本当に怒ったの。

 

あんなに頑張ったのに、思ってはいても尽力した子供に奴隷として生きる方が落ち着きますなんて。洗脳はとけません。

お母さんがとけてないのに子供だった私達がなんともないわけないじゃん。

 

いつもいつも自分の事ばかりだと思った。

だからもうわかった❗なんもしなくていい。

とキレてしまった。

言っていい言葉といけない言葉があるって

 

 

そして、母もキレた

 

ホントに怒りますよ!誤解だらけ❗なんでわかってくれないの?わたしはかわっていませんよ。わたしがおかしいのか?

 

かわらないからだめなんだよ、おかしいよ色々。

今までお母さんが大好きで、だから守りたくて、幸せになってもらいたくてなにも言わなかったけど、私が何か辛さを吐き出すと聞きたくない、忘れて暮らしたい。子供といると昔を思い出す。

なんてふつうにいえるのおかしい。

 

普通の家庭なら何度も何度もぶつかり大人になるんでしょう。

私はこんなに自分の意思をぶつけたのは初めてでした。

 

いきなり転校だといわれても理由は聞かなかった。

かたくなに変更させようとするサンタのプレゼントは高いのなんだと本当に欲しいものはクリスマスも誕生日にもねだらなくなった

殺人者だといわれてもそうなんだと受け入れ、

人生終わったな。といわれてもそうなんだと受け入れた

進路も唐突に母に勧められた学校に、学校内で一人もいかない所を受け入れた、いかにも行きたいという顔をして。

きっと私はそこしか経済的に行けないんだと悟っていた

 

だから

 

 

そういう喧嘩をはじめてしました。

 

 

でも、私も言いすぎたし、大人げなかったからこじれるまえに改善修復しなきゃと翌日

余計なことはなにもいわず。

 

おはよう

昨日はごめんね。

 

のLINEを送った

旅の途中欲しいと頼まれていたものもあったから、ついでに整理しやすくする収納もセットで送ろうと

 

クローゼットの奥行きはいくつですか

とつけたして。

 

母は、

おはようございます。

体にきをつけてね。

 

 

 

まるでお別れの台詞じゃないか。

 

私は愕然とした。

 

続く。

 

おじの葬儀と母との喧嘩2

私は母にLINEした。

弟にもLINEした。

 

まずもし病院から連絡があっても私一人で対峙できないから弟を待つ。

しかし、どんな状況なのか分からない、ある程度は簡単な道筋について家族の希望をまとめておきたいと。

 

父の姉にいつ連絡するか、会うのか、私達は父と最後に会いたいのか。

長引くなら介護するのかまで。

 

田舎の葬儀は駆け足で立ち止まる猶予はない、家族だけ?おばはよぶ?そもそもしない?

亡くなるまで会わない、亡くなっても出来たらしきはしたくないし、火葬にも立ち会いたくないのが私の気持ちだがどこまで許されるのか?

 

まだ今どうにもなっていないのに。

と思うかもしれない。

しかし、母は親戚に離婚を認められているが母の強い意思でしていない状況

限りなく今は他人に近く、連絡先を隠している

母を守るためだ。

 

何かあると今県内にいなくて、話しづらい弟ではなく私に連絡を寄越すのが父の姉家族だ。

式をするにしろ、入院を伝えるにしろ責められるのは私なんだ。

母が別居した時散々私だけが標的になった。

なんで?

もういや。

だから、家族の総意です。と言える決まりごとが欲しかった。

おかしくないと思う。

そもそも私は娘だが父の籍から抜けた唯一の家族なんだ。

なぜいつも私が責められ使われ、怒鳴られるのだろう?

ずばり、弱いから。

叩きやすいから。

自己防衛をしたかった。

私の力になる父の悪行も知っておきたいし、家族の共通意識もまとめておきたい

 

母は二人で火葬して埋葬して、すませてから親戚に伝えろと言った。

 

しかし、弟が責任者になると跡取りの嫁の義妹も下手したら責められる。

昔、祖母がなくなったとき、母はおばに土下座してののしられていた。

あれをさせてはいけない。

だからそのやり方はあちらを刺激し怒らせそうなるのではと私は不安に思った。

私も矢面にたって発作を起こしたくない。

理由は病気になったのは父のせいだと思っているから悔しいのだ。

私が初めて倒れたのは祖母の自殺が私のせいだと父に言われて暫くしてからだ。⬅️違ったが、知ったのは40過ぎてだ。

 

父は退院して部屋で寝ている15の私に言った。

 

ふうてんの寅さんってしってるだろ、あのふうてんのてんがてんかんのてんだ、

精神的におかしいというかまともじゃないみたいな意味だ、まぁそういう病気だ。

お前の人生終わったな。

と少しニヤッとして子供部屋からいなくなった。

 

父が笑ったのはバカで可愛い娘がさらにバカになったからじゃないかとおもった

父は自分が一番が好きで、崇められたい。

私がよい成績や賞をとると不機嫌で悪いとばかだなーと笑って喜んだ

実際私は信じられないくらい勉強ができなくなり、ほっさのたびに記憶が消えていった。

父はばかだなー、バカなこほど可愛いからな。とご満悦だ

 

そんなことを母にも話すと。

 

そんなことに心揺らしてどうするんですか!

強い気持ちでやりきりなさい。

おばさんにはこういってやればいいのです。

胸を張って言いきりなさい

と言い返す言葉を書いてきた。

 

私と母の会話はこんな感じがたまにある。

まるで他人か生徒だ。

 

なんかおかしい。

私は思った。

 

え?

なんで~

お母さんは安全地帯で、私と弟、下手したらそれぞれの配偶者にめいわくかけるのに、本来なら喪主候補一番の母になんでこんなに強く叱られているんだろう?義妹守る話しなんか出てこない、え?捨てられたから?違うよ病気で会えないし、お母さん助けてくれたのあの人だよ?

 

私は実は生まれて初めて母を否定し、母の言い分に言い返した。

 

 

私が守りたくて守れなかったあの日の母と、義妹が重なり、私は今回は後悔したくなかった。

もうなにもできないこどもじゃない。

母も守るつもりでいた。

しかし、なにか変だよお母さん。

筋が通らなかったり不条理なことが多すぎると。

大人になった私はあの頃みたいにあっさり丸め込めなくもなっていた。

 

続く。

おじの葬儀と母との喧嘩1

先日、おじが亡くなった。

母の妹の旦那様だ。

遠方の葬儀に一人で向かうという母に、無理矢理ついていった。

高齢の母が心配だったからだ。

 

ごくごく普通の感情で、母のためより私の安心のためだったかもしれない。

もちろん障害者の息子がいる、旦那にはかなり世話をかけた。

けれども行けて、お別れできて、おばや従兄弟に何年ぶりかに会えたのは良かった。

直ぐに良いよと言ってくれた旦那には感謝をしている。

 

私はこの葬儀で思いもよらないくらい心が揺さぶられた。

骨を拾いながら子を思った。

先に逝く、私が多分みおくると覚悟していた息子の葬儀が色をつけて私の心に食い込んできた。

 

私は正気を保ちみおくれるのか、骨を拾い上げられるのか。

涙がでてきた。

 

覚悟なんて生まれたときにしたはずだったのに。

 

そして母につい、怖いといって涙を少し見せてしまった。

母は

まだ先の話だよ。

といって私の前をスッと歩いていった。

母も泣いていたのかな?

なら…

でも手も握ってくれないんだな。

私はどこか寂しく思いながら、亡くなったおじに失礼な行為だと諌めているのかもしれないと涙を拭い背筋を伸ばして母のあとを追った。

 

 

葬儀は別にして。

母はいつみるより生き生きしていた。

きょうだいと話し、懐かしい土地を歩く母はいつもよりずっと若く、私が会いに行くときの何倍もにこやかだった。

けれど、懐かしい土地を遠ざかるにつれ背が曲がり、歩くスピードが急激に落ちた。

ああ、寂しいのだな。

と思った。

母はなぜ父と離れたあと戻る事を考えなかったのだろうか。作り上げた人間関係もまた懐かしい地で作れなかったのか?

と思ったりしたが、その年齢にならないと分からない気持ちもある。

またついてきてあげたい、滞在中も移動中も時折いったが困ったような嫌そうな顔をされた。

そうか、母が戻りたいのは私がいなかった時代のあの場所なのかも知れないとこの数日で感じた。

 

母との生まれて初めてのまともな喧嘩で。

 

帰宅後、亡くなったおじや、年老いた母の弟であるおじを見て私は不安になった。

父も近いのかもしれないと。

 

残念ながら父が居なくなるのが不安なんじゃない。

それにまつわる葬儀や集まる親戚、また、それ以前に介護は、看取りはと。

そんなことが不安になった。

 

続く。

 

明けましておめでとうございます。

昨年はなんだかとても、とてもしんどい一年でした。

 

10年ぶりに受けにいけたがん検診で異常無し

の通知を受け取ったとき

 

喜びは皆無で

あぁまだ生きていくのか私は。

 

と思い脱力感を感じました。

その何日かまえに、本当に久しぶりのパニック発作を起こして、もうしんじゃうんかなー。

まぁいいか。

と家族も呼ばず、ただなぜかてんかん発作に繋げたらいけない。

という矛盾にみちあふれたおもいからセルシンを噛み砕いてソファーで一人ころがっていました。

15分位してたまたま旦那が顔をだし、びっくりして背中をさすってくれましたし。

 

死ぬわけないよな、このくらいで。

しんどい損だな。

とか冷静な自分がいたりもしました。

 

そんなわけで。

そんな馬鹿なことを思ったのですが。

 

新年はすごいですね

なんでなのかわからないけど明日からは良いことがあるような気分にさせてくれます。

 

 

しんどいことばかりすぎでこちらにかく気力もわかない日が続いてましたが。

振り返りも含めて、またボチボチ書いていこうかと思います。

 

今年もよろしくお願いいたします。

 

毎日幸せの砂をブルドーザーのようにかき集めて年末にはすめそうなサイズの砂の城を作る勢いの元旦です

 

笑って生きる理由と本当の本当

息子の身体障害者手帳療育手帳

私の精神障害者手帳

が重なって引き出しに入ってる。

コンプリート。

なんなら、多分息子も旦那も精神とれる、けどとってない。

 

20年。

頑張ったな。

私達家族。

 

大袈裟な!

とか

自分の人生も捨てたらダメですよ

とか

色々いわれるけど。

 

息子が虫の息で産まれて、

手術する❗と決めた瞬間

私と旦那の人生は息子を生かすことと守ることと見送る事のみを見つめて動く人生になった。

さいきんほんのすこし、自分達だけの人生を楽しむ余裕が出来たけど。

息子が産まれた時に生存確率三割。と言われ

ありがたくもその三割に入れた時から、私達はたぶん死ぬまで息子をみまもり続ける道を歩き出した。

 

実は私。てんかんだけどね。

薬から離脱出来ていたの。

息子の妊娠中安定期以降から妊娠出産の時に発作が起きないようにお守りのつもりで飲んでおこう。出産後暫くしたらまた離脱しようね

と言われていた。

けど、離脱出来なくなり、ストレスで発作も再発した。

何度もあった命の危機に、何度もあった悪意や侮蔑に、常に付きまとう不安と哀しみと諦めと、そしてあの時命を手離してたらという悪魔の甘言への自己嫌悪。

実家の崩壊に、義実家のゴタゴタ。

鬱に、パニック障害になった。

 

 

これは私だけの話ではなくて、

障害児が産まれたどの家庭にもある現実。

離婚や心中も珍しくはない。

 

自分の人生を諦めるか、

子供を捨てるか、⬅️離婚して片親は逃げるパターンは多い

一緒に人生を諦めるか、

 

そんな0か100かみたいな極端なことを❗

と支援者すら口にするが、

現実は厳しい。

息子が産まれるまえには健康体だった私も旦那も今では満身創痍だ。

人生楽しく、美しく、素敵に生きる。

いつだって前を向いて歩いてきたし、諦めないでいたいと今だって思っている。

私はたぶん、人より悪意に鈍いし、

旦那はたぶん、人よりメンタルが強い、

息子はたぶん、信じられないくらい陽気だ。

 

それでも深く物事を考えると足元は崩れ見えない闇にまた落ちそうだ。

何度も這い上がってきた闇のなかはべっとりとした不快感が充満している。

そのまた奥をみたらキラキラ光る世界がありそうで魅惑的だった。

ほんのすこしの執着心と責任感から這い上がったけれど。

這い上がれず、キラキラの世界にダイブした人もたくさんいると思う。

 

世界は優しく、残酷だ。

最近は、生産性、自己責任と厳しい言葉が溢れている。

 

私が極端に弱くて、責任感もなく、まるで頑張らなかった、出来損ないなんかじゃないと思いたい。

私は頑張った。

笑って、元気に、120%で生きてた❗

 

 

こんな苦境にいて、10年後、20年後、

今私がたつ場所にたつひとがいまたくさんいて、あなたがあのお母さんいつも明るくて元気ですごいよね❗

わたしなら耐えられない。

と思っている人が一番ここに近いかもしれないのをちょっと知って貰いたかった。

 

そして、元気に明るく頑張ってる貴女に、大丈夫?その笑顔は心を削って作ってない?泣き言いってもいいんだよ。

と伝えたかった。

 

もし伝わるなら。

どうか為政者の皆様、外面だけで大丈夫と思わないでください。

私達は辛いです。

本当は辛いんです。

だけど、それを口にしたら子供を貶めるようで、現実に負けてしまいそうで、リアルではポジティブに笑顔を張りつけて生きています。

気がついてくれたら嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

私の弟

私は弟とほとんど連絡をとっていない。

実は住所も知らない。

顔を合わせたのもコロナ禍よりだいぶ前が最後。

電話は、数年前かな?

 

弟の家には弟の家の問題や都合があり、なにより離れて暮らしているというのもあるが。

私は弟を頼りすぎた。

だから私はあえて今弟と最低限しか連絡をとっていない。

距離を縮める努力をするのが弟にとって最良ではないからだ。

弟にはいまもっと大事なものがある。

 

だから、年に一度ラインスタンプで明けましておめでとうをおくり、誕生日におめでとうスタンプを送る程度だ。

 

もはや一家離散に近い家庭が私の実家のありようだ。

 

私は自らの病気で、小学生の弟に引っ越しをさせた。(父の都合でも一度転校している。)

本当は高校から、叔母の家に下宿の予定で、実際ひとつきかふたつきはお世話になったのだが、発作を起こして母と弟が私の高校のある場所に引っ越しを迫られたのだ。

弟はそのせいでいきなり友人と切り離されて、嫌だと泣くと父に、お姉ちゃんのこと考えたら我慢しろ❗と張り手をされたらしい。

暴力で黙らされたのだ。

 

息子が産まれたときも、かなり遠方の大学生だった弟に父がお姉ちゃんのために大学休んで帰ろ‼️といったらしく。実際暫く本当に世話になった。

 

 

弟はその都度何を思っただろう。

まだ小さいと理由を私より分からず家族に振り回された。

もともと少ない彼の選択肢からさらにたくさんのものを奪われた。

 

私は甘えてしまった。

ごめんなさいもいえていない。

いつか、いつか。

この恩を返そう。そう思っていたから両親は私がみようと思っていたが、父のモラハラは年々酷くなり、弟が離脱し、母が離脱し、私も発作が頻発して離脱した。私のてんかん発症とメンタルにとどめをさしたのは父のせいで間違いないと思っている。父にも思うところがあるが、弟には本当にごめんと思っている。

父と弟は一番反りが合わないのだ。

なのに、たぶん何かあったとき彼をそこから引き離してあげることが出来ない。

 

さて、私はこんな具合に弟にとって面倒な姉なのだが、母と父が別居するまで知らなかったことが山ほどあった。

まず、弟は祖母の死因を知らなかったし、多分それにまつわる色々な事を未だに知らない。

実は私も知らないことが多く、今しっておくべきなのか悩んでいる。知るなら親戚の誰かに聞かねばならない。母にはあまりこの記憶がないのを最近知った。だから無理だ。

そして知ることは私に良いことかも分からない。

 

そして、私のために引っ越しを迫られたということになっているが、家を売却せねばならないことや引っ越し、転校は既に決まっていたらしい。

つまり、父は美しい家族愛を隠れ蓑にして自分の借金と父としての威厳を守ろうとしたのだ。弟をそれを言い訳に叩いたのだ。

むしろ、ごめんな、お父さんとこちらに残っていまの学校に通うか?位の提案は出来たのではないか。今大人の私は父母の親本位に未熟さを感じている。

父は私たち三人が住んでいた場所より狭いが格段にきれいなマンションに引っ越し仕事を続け。

弟が引っ越しに際して泣いて死守できたのは

水洗の洋式トイレであるということだけ

 

鍵すら満足に閉まらず、ウサギサイズのどぶねずみや、コウモリの巣になった長屋にひっこしたのだ。

私は文句を言える立場にはなかったが、今なら思う。

お父さんが一人で住んでたマンション、

私たちが住んでた長屋の倍位の家賃だったよね?

お父さんの借金でうちがなくなったのに、

おかしくない?

って。

 

 

結果、四半世紀弟は私に恨みを持っていただろうし、私は弟に引け目を感じていた。

 

なんて悲しい現実だろう。

きっと私たち兄弟はそんなかっこつけな父にたくさん翻弄されすぎた。

私達は痩せていき、父は独り暮らしでのみ歩き、太り今重度の糖尿だ。

 

そして声をあげられなかった母は酷く強い罪悪感を私と弟に持っていて私は

なんで❗

を母にぶつけられない。

母も被害者だからだ。

そして、なにより母は私や弟の命を守ってくれた。

弟は幼すぎておぼえてもいないから、きっと母も恨んでいるかもしれない。

それすら私たち兄弟は話が出来ていない。

 

たぶんいびつなまま終わる弟との関係性だが。

私は何かあって、なにか出来るなら弟の助けにいつかなりたいと思っている。

いつか、話せるときが来たら。

そう思う。

 

 

支援の格差

福祉サービスは基本、こちらからアクションを起こして申し込まないと受けられません。

 

情報格差がおきます。

障害児であれば医師からの声かけからうまく繋がっていく場合が一番入りやすい入り口です。

その医者や病院の

こんな制度がありますよ。

だとか、

病児ならば

この制度が使えるのですぐ申し込みをしてください

だとか。

検診からの療育、そこでの情報提供も有効です。

 

しかし、それを受けられない親も居ますし、そこの情報が全てではありません。

 

うちは生後すぐの手術の必要性から役所で医師にいわれた手続きをするさいに、他に使える制度はないのか?と訪ね、

あったかな?

という新人に不安を覚えたとんかつくんが⬅️旦那

なんかまとめたパンフレットみたいなのないのかつめより、持ち出し禁止とか言うパンフレットを見せられ、聞いても前例無いから分からないというあやふやな職員に業を煮やし、なら自分で調べるからパンフレット渡せ!持ち出し禁止ってなんのためのパンフレットなんだ!とすったもんだのあげく、障害児のための福祉制度という、次回行くと普通に配布されていたパンフレットを手に入れて。

そのころまだあまり家庭に浸透していなかったネット検索でも調べ、使える福祉一覧を役所に持っていき、したことない、前例無いと言われまくりながら一つづつ福祉を手に入れてきた。

これ、多分帝王切開のあと、息子が手術に次ぐ手術で付き添いしていた私には出来なかった作業で、夫婦で呆然としていたら沢山の援助を受けられなかった。

役所だけでなく、本屋も、病院、ホームページ作成による全国のママ友からのアドバイス、親の会の先輩ママのアドバイスと駆けずり回り情報をかきあつめ、精査し、まとめ、申請する。

障がいの受容、病気に関しての情報収集と学びと同時に、子供の死をも覚悟しながらこれだけの作業をして、手帳は生後半年くらいで手に出来たし、手当ても受け取れるようになるのが早かったから個室入院も経済的に乗りきれた。

 

 

私たち夫婦はこのての情報収集や作業が苦手ではなかった。

夫婦の連携もとれていたし、寝る間を惜しんででもやるべきという気持ちもあった。

 

さて、現在は23年前と違いネットが普及し、いちからホームページ作らなくともTwitterGoogleInstagram、blogいくらでも簡単に情報が入るようになった。

 

でも、それが苦手な人もいる。

 

リアルな世界での地域密着の情報も集めるのは意外に骨だ。

 

福祉の受け皿はまだ少なくて、人によっては必死に集めた情報を他人に話したくない人もいる。

私はペラペラ話すので、苦言を受けたこともある。

受け入れが増えたら、自分の枠が減って首締めるのになんで苦労もせず人に聞いて簡単に情報を手に入れようとする人にまで教えるの?

と。

確かに。

私が素晴らしいと聞かれたら教えていた作業療法士さんは受け入れ人数が増えて、うちは他の人に変更になった。

私に苦言を呈した方は、変更を頑として受け入れなかったらしい。

確かに。訓練の先生は当たり外れが大きくて、子供が小さい頃は特に立てるか、立てないかの大きな差となったりするからそれを責めることも出来ない。

私は良いかっこうしいだといわれたら返す言葉もない。

 

 

とにかく戦場のごとく情報をせいするものが少ない枠を手にするのが障がい者の現実だ。

 

引きこもりの私がいま息子に最善であろう福祉を受けさせてやれているのは

ひとえにケアマネージャー?生活相談員

の当たりを引いたからだ。

3ヶ月に一度2~3時間も息子に関わるデイや、ヘルパー、訪問リハビリの方々を一同に集め会議を開いてくれる。

そして息子の困り事を聞き、したいことを叶えるための制度がないか探してくれる。

私の精神的な支えもしてくれて。

我が家はこのひとから最新の福祉制度やアドバイスがもらえるのだ。

どうですか?という電話しかないという友人もいたから当たりなんだとおもう。

 

ラッキー😃💕

 

 

確かにラッキー😃💕

なんだけど。

ずるしてるみたいで申し訳ない気持ちもする。

 

 

私はこの人がいるだけで現在の最良の福祉が受けられます。

マイナンバーで保険証が紐付けされた現在。

病院から、福祉に繋いだ方がいいと判断した人を役所に連絡するシステム、出来ないでしょうか?

どん底にいる親に、助けますよ❗

これ使えます‼️

と駆けつけて泣いている親の背中を撫でてくれる人が派遣できないでしょうか?

 

私は偽善者かもしれませんが、

 

18すぎて急に厳しくなる世界の中でこの方が支えです。

 

同じ支えがみんなにあればとどうしても思うのです。

 

椅子取りゲームみたいな殺伐とした世界で、恵まれているから言えるのかもしれませんが。

私は息子が週に5日利用しているデイが4日になってもやっぱりなるべく障がい者同士が睨み合う日々は嫌だなと思うんです。

 

甘いんだろうな

と思うし。

 

実際、私はなにかと甘すぎてとんかつくんによく注意受けるんですけどね。

 

とりあえず、必要な情報だけでも親の能力や、やる気や立場に関わらず受け取りやすい仕組みが出来れば。

と思うのです