きみと歩く時々走る

重複障がいのある息子とのこれまでと今

ドナドナ

私のはじめての車で、最後の車であろう愛車が昨日、ドナドナされていった。

 

息子が2才の時買った車だからもう20年。

 

売れる車ではなくて、旦那の友人で車の整備を生業にする人が車検の残っているあと一年を乗ってくれるというので譲った。

 

35℃という日にはクーラーが機能しないくらいには弱りきったご老体。

ちょうど任意保険が切れるタイミングに手離すことにした。

実は手続きはもう既に終わっていて相手側の取りに来られるタイミングが昨日だっただけで、もううちの子ではなくなってた。

 

私の気持ち的なもので、車検が切れる前のタイミングで譲った。

手離す=廃車=鉄屑

は悲しかったから。

あと一年、あのこはこのまちのなかを走っている。

慰めだ。

 

息子の療育、訓練、支援学校の送迎、母との逢瀬、病児ママ友とのランチ、たくさん働いてくれて、私と息子の人生を豊かにしてくれた。

 

最後に、駐車場で前後させるだけの運転をした。

私の車とのおわかれ、そして私の運転とのお別れ。

実際は前前回の発作から運転はしていなかったから私が運転から離れてもう長くて、この運転は久しぶりだった。

 

エンジン切ると

See you...good-bye

って車にひょうじされた。

 

涙でそうだった。

See you...じゃないんだよ。

ありがとう、私の唯一の車。

最後のgood-bye

 

迎えに来たカーキャリアの姿も。

ドナドナされていく姿も私は見なかった。

 

そして、今朝。

車庫には車のコンクリートの四角い、白い痕跡が残っているだけで。いつもより風通しの良い空間があった。

私の心みたいなぽっかり開いた空間。

 

車の運転、しようとおもえば許される。

だけど。

日に日に二次障害が重くなり、薬が増える私は運転を手離そうと思う。

 

山の田舎で車を手離すのは、買い物も、友人も、色々なものを手離すと同意義で私はすっかり引きこもりで、ゴミ出しくらいしか外にでないような日々なんだけど。

慣れてしまった。

だからさよならした車。

でも、さみしいな。

 

 

昨日から頭のなかでドナドナがリフレイン。

 

 

障がい者になった。

昨夕、ポストに封書が届いていた。

 

精神障がい者手帳が交付されました。

悩んだ末、申請した手帳。

 

息子に手帳を申請し、受け取ったときより等級は遥かに下だけど、気持ちは遥かに重苦しく感じた。

 

そして思った。

 

私はやっぱり、障がい者に対して奢りがあった。

恥ずかしい。

情けない。

 

 

身内に障がい者福祉に携わる人がいて、自分は幼いときから差別もなく育ってきたと思っていたし。

息子が障がい者であることを他人に話すことも躊躇いはなかった。

けど。

私は手帳をてにして、果たしてこれから気軽に

 

手帳持ってるんですよ🎵

 

といえるのか。

 

自分で決めて申請したのに。

 

自分でもいまいち理解できない喪失感や無力感そしてまた少し自己肯定感も削がれた気がする。

 

その人に寄り添う、その人の気持ちになって考える。

偉そうに思っていたが、その立場にたたないとやっぱりわからない。

って私はもう何度そんな事を思ってるんだろう。

学習しないな。

 

 

支える立場だけであれたこと、

守る立場だけであれたこと。

 

これは本当に幸せなことだった。

 

でもまだ支えられながらも支える立場で

守られながらも守る立場でいきることが出来る。

 

これは幸せなことだとおもう。

 

今日から世界の色が少しだけ変わるかもしれないけど、変わらないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

私の大好きな友人に愛を込めて

私には会ったことがないけどネットで繋がる友人がいる。

 

彼女が最近の私のblogをよんでLINEをくれた。

長い長いラブレター。

 

 

 

ありがとう。

私もあなたが大好きです。

 

あなたを尊敬しています。

私とあなたは少し似ていて、ずいぶん違う。

あなたの背負うものは私と違うし、私からみると私の何倍も重たくて。

わたしはあなたから尊敬を向けられるほうではなく、向けるほうだといつもいつも思っています。

頑張りにどうエールをおくれば良いのか、苦しみにどう寄り添ってあげたら良いのかもずっと考えていたんですが、言葉では本当に薄っぺらになる語彙しか持ち合わせない自分に歯がゆくなりました。

直接連絡するほうが良いのだろうかと思ったりもしましたが。

 

でも、あえてこのような形にしました。

私達は偶然ネットで知り合いました。

しかもおうち作業所のお客様からのはじまりでした。

奇跡的なめぐりあいです。

あなたに会えたことは私の喜びです。

たまに元気?と連絡をくれて自分も大変なのにいつだって私を気遣って、私を癒し、励ましてくれて。

 

女神様か!

って思っています。

 

私はあなたが大好きです。

そして、あなたが私のために祈ってくれるように、私もあなたの幸せを祈っています。

 

梅雨のこの時期、気分が滅入りますね。

しんどいですね。

私もです。

そんなしんどいとき、いつだってあなたから連絡があります。

ありがたいなあと思います。

返事が出来ないくらいしんどいときは許してくれるよね。

待っててくれる。

どんなに待たせても変わらない友情をくれる。

 

ありがとう。

いつもいつもありがとう。

 

 

私もあなたに出会えて幸せです。

いつもありがとう。

そしてこれからもよろしくね。

 

てをつないでゆっくり歩いていきましょう。

また連絡します。

 

 

親愛なるあなたに。

まるより。

 

 

 

 

長い先を見ない生き方

私は一年くらい前に息子が産まれて直ぐにはいった病児の親の会を辞めた。

必要なくなった訳じゃない。

むしろまたこれから息子の身体は健常者より急激にしんどくなると予測されるし、情報は少しでも欲しい。

だけど辞めた。

色々理由はあり以前書いたこともあるので今回ほとんどは割愛するが、決め手は

若いお母さんが息子の現状を聞いて一瞬、もしくはかなりの時間、取り繕えない恐怖を見せたから。

病児の場合、若い親は治療によりほぼ健常者と同じ未来を目標にしているし、その未来として成人した子供の様子を聞いて安心し、過酷な治療の今に戻っていく。

健常児より発育遅れてるけど大丈夫だ。

いつか巻き返して、一人暮らししてる、大学に行ってる、就職してる、結婚してる

手術を乗り越えた先は明るい‼️

それが見たくて会に、先輩お母さんとのランチに顔を出す。

そこに私がいる。

怖くて、見たくない、起こり得る事例が想像ではなく現実として突きつけられる。

怖い、たまらなく怖い。

きっとそう思ったんだろう。

私もショックだが、若い親は将来がきっと怖くなったはずだ。

私にもそんな経験はあるし、実は車の免許とれて、簡単なアルバイト位できる未来を妄想していた。もしかしたらデスクワークの就職できるかな?なんて今思うとお花畑な事を感じるくらい自立した未来がたくさんあり、誇らしげなお母さんに憧れすら抱いていた。

そこにたつ未来の自分も夢想した。

 

 

 

だから、

辞めた。

 

 

私は恐怖を撒き散らしたくなかった。

残念な人扱いもされたくなかった。

 

若いお母さんに罪はない。

私にだって罪はない。

そんなこともある。

 

 

先日の駅の動画、線路で自分より身体の大きな息子を抱き締めるお母さんの姿が私に重なった。

 

そして、あんなに障がい者の親が取り乱したのはきっと、

若いお母さんには未来への恐怖。未来への絶望。

現在そこにいるお母さんには明日への恐怖とやはり厳しい社会から投げ掛けられる言葉への哀しみと諦めと憤りと、そして一周回ってまた恐怖。と言う無限ループ。

二種類あったように思う。

 

そこに問題意識をもち、むしろ動画の拡散から社会気運を高め良い未来をという当事者ではないが福祉関係者もいた。

色々ないけんがあるだろうが、私は消してあげてほしかった。

親の会のお茶会で凍りついた若いお母さんをとった動画があったとしたら私は見たくない。

そこで平気な顔をして笑い食事を無理やりおしこんでいる自分も見たくない。

息子が友人にからかわれて、パニックおこし、それをまた笑われていたあの昔の映像が何度も再生されたらたまらない。

頭下げて謝って、そんな自分の後ろ姿を撮られてさらされたら。

明日いきる気力がきれる気がする。

辛い。

傷ついた私を教材にしないで。

フィクションの教材をつかって。

お願い。

と思う。

 

けれど逃げてばかりでもない。

必要な手助けがあるのだと、苦しい思いをして社会に出ることもある。

そんな困り事があるなんて想像もしなかった❗と健常者が感じてくれないと福祉制度は変わらない。

今ある福祉も先達のおかげた。

だから、がんばるときもある。

だから福祉の人の気持ちもわかる。

 

 

だけど。

今回は頂けなかった。

まだそこまでみる必要がなかった若い親を恐怖に叩き落とした。

傷ついた同じ立場にいる親の傷を開いた。

 

先の先まで考えておきましょう。

と障害児の親はよく言われる。

だけど、私はほんの少しだけ先をみて動き、動けなくなりそうな恐怖からは目をそらして、今を確実に生きるほうがいいとおもう。

 

なぜか。

福祉制度も環境もコロコロ変わる。

医療は進む。

社会情勢や人の価値観もかわる。

息子が産まれたとき、グループホームなんてなかったし、使える制度やサービスもあまりなく、ケアマネージャーなんていなかった。

あの時助からなかった命は助かり、後遺症が残らない確率も上がったが、後遺症が残るが助かる子も増えた。

よく効く薬も出来たし、ジェネリックなんてものも出来た。

 

 

いま幼児期の子が青年になる頃にはホームドアも完備されているかもしれないし、もっと安全に出歩ける何かがうまれているかもしれない。

 

そして、私たちは十分に傷ついて頑張ってる。

だから、問題提起も、新しい福祉も、生きやすい社会に向かう努力も、マイノリティー任せではなく、国ががんばってくれないだろうか?

苦しいのは障害児だけでないし、優遇しろ当たり前なんて思わない。

 

ただ、知っていますか?

私は障害児の親になるなんて思いもしなかった。

パラアスリートも中途障害の人はきっとそこで活躍する未来なんて思いもしなかったはずだ。

 

そうなったときに、少しでも絶望から救い上げ、生きることを認めてくれるのは福祉だ。

 

そして、目に見える福祉の拡充は若い親を救うはずだ。

こんな恐慌状態を防ぐのは、少しずつでも手厚くなる福祉の姿だ。

大丈夫、大丈夫。

あと数年後にはもっと良くなってる。

今を乗りきれば、少しよくなる。

未来に光りが見えるようにどうか国に、大きな力にがんばってもらいたい。

 

私達当事者は多分、もうギリギリまで頑張ってるよ。

でも、まだもっと絞り出すくらいがんばるときもある。

丸投げしてる訳じゃないのもわかって欲しい。

 

そして。

若いお母さんが今回のことに未来を儚まないで欲しい。

怖いよね、わかるよ。

だけど、ほんの少しだけの先をみて踏ん張って。

私もがんばる。

 

 

 

そして、あのお母さんが、息子さんが。

いま辛い思いをして涙を流していませんように。

祈っています。

 

 

 

 

知命

私は今年、知命の歳を迎える。

 

今朝、

若い頃波瀾万丈だった人はマイノリティーの子育てに文字にしにくい向きのようなものを感じる

というのを呟いているかたをお見かけした。

 

それをみてなんというか。

私は知命を感じた。

 

息子が私を選んで産まれてきたとは決して思わない。

単に確率だと思う。

というか、自分を信じこませてきた。

 

 

父が問題を起こす度に仕方のない人だ、親は選べないと自分でどこかあきらめていた。

祖母が自死して、父に私のせいだと暗にほのめかされた時、打ちのめされたが疑わなかった。そしてすぐに病を得て、父にお前の人生終わったなと言われた時は天罰が下り、そぼや、父や父方の親族に少し罪を償えたのだろうかとむしろほっとしたところもあった。

金銭的に余裕がなくて辛い思いや我慢もしたが子供にはなにも出来ないと聞き分け良くあきらめた。

好きなものより、安いものを選ぶような生き方が染み付いた。

 

そして、ずっと誰にも言えなかったが、思春期に身内に性的な虐待?ハラスメントを一度受けたことがある。

本当に誰にも話せないままこの歳を迎えた。

私の法事や墓参りの類いへの忌避はここにある。

あの人に会うかもしれない恐怖だ。

しかし、最後のラインまで引きずり込まれなかったことや、それ以来会わないことに、きっとあの人が一時の気の迷いを自分で押さえ込んだであろうことや罪悪感をみるようで私はなかったことにしようとせりあがる吐き気を押さえ込んできた。

 

私の親から離れるまでの日々は恐怖や諦めにたくさん支配されていたが、それでも私は自らが不幸だと思うのが嫌だったのと、母が大いに犠牲になって守ってくれたから輝きを見つけて手を伸ばして伸ばしていた。

まやかしかもしれないが、私は幸せさがしをするのが得意だ。

 

息子が産まれたあとも重なる息子に関する不幸や、息子を優先するための堕胎、その後の実らなかった不妊治療、とうとう耐えきれなり病んだ精神。

その病気で私の小さな幸せの輝きのいくつかがそれにより消され哀しかった。

 

だけど。

 

それでも私は日々を美しく楽しく過ごすための幸せさがしをするのが得意だ。

子供の頃の苦境や不便や悲しみが私にその力をくれた。

 

しかし、

この程度のことは世の中のたくさんの人が心のなかに秘めていることなんだろう。

 

私はきっと幸せな人生を歩んでいる。

 

 

私はたぶん、私や旦那が産まれるに至るまで繋がってきた先祖たちの長い永い命の旅の終着点を見届ける、最後になる息子が美しく幸せに土に帰り、光りにとけるまでの最後の守り手としての役割をまかされたんだと思う。

 

その命の流れが綺麗な水滴一粒になるよう

幸せに思えるように。

川の流れが細く細くなりいつしか消える細い支流が私たちかぞくさんにんだ。

 

私の運命はそこに行き着くはず。

 

子孫を残す旅路は消えるけれど、マイノリティーの息子が、そしてその家族があとに残る人たちに少しだけ残せるのは

マイノリティーの世界が良くなるための試行錯誤であったり、発信であったりそんなことかな。とおもった。

 

うまく言えないんだけど。

これだけぼろぼろになってるんだけど。

たぶん、私はマイノリティーの子育てに向いた人間で、

たぶん、色々な経験をした。

そして、これからも色々な経験をする。

 

過去の辛さが、経験がきっと私にちからをくれるはずだ。

 

派手なことは出来ないけれど。

地味に普通に私は私の運命を生きていこうと思う。

なにより、親と過ごした時期に哀しかった些細なことを救い上げ浄化してくれるとんかつくん⬅️旦那には感謝してるし今日も幸せに過ごして貰いたいと思う。

 

 

 

学校を選ぶ

きっと今ごろ

障害児の親は最終の決断のための見学や話し合いやかなりの確率で泣かされる就学相談会と言うやつに必死になっていると思う。

 

健常者として生まれた私はお受験しなかったから、普通に就学のお知らせが来て、普通に校区内の普通クラスに行くレールがあり、

どんなランドセルかうとか、どんな机かうとか、就学説明会の日程やお道具の名前つけ、制服や体操服そろえて、

いやー!お金かかる、時間かかる!面倒なことたくさんあるぅ。

 

と言う程度の苦労を親にさせたであろう。

 

しかーし。

私は親として全く違う手順を踏んだ。

息子の就学相談会に保育園にはいる前からなぜかお誘いがあり、

パンチにキックにボディブロー、一本背負いまで決められ。

一度などスーパーの屋上にたったもんだ。

とにかく、みんな悩んで悩んで、頼んで、頭下げて、就学のお知らせが来るまで血のにじむおもいをする。

楽しい入学式すら何て言うか辛かった。

 

うちは小学校は地元の学校の支援学級。

中、高は県にひとつしかない支援学校に一年は通学、中二から寄宿舎にいれて通わせた。

 

今回は我が家の微細なことはおいておいて。

普通学級か支援学級か悩んでる

支援学級か支援学校か悩んでる

そして前者にいれた親を責める風潮について私の個人的な意見を書く。

 

まず、それはまるっと親の見栄なんだろうか?

きっと9割は違うと思う。

色々なメリットデメリットを悩み悩み、悩み抜いた親の愛だと思う。

 

私は中高とお世話になった支援学校を強く押されたし、それは息子に最適な環境だとわかってはいた。

しかし、地元の学校に通うことで放課後に訓練を受ける時間が得られたし、家族で暮らせる平日があったし、地元に息子の存在を知ってもらえた。

息子は知的、発達に問題がある、18になりいきなり地元に現れたら、不審者扱いされるような行動もとる。田舎だから、都会よりずっとそんな視線がある。

色々なやみ、メリットが大きいと思う地元の支援学級をえらんだ。

無いから作ってもらう活動もした。

 

息子はいじめにもあったし、やっぱりしんどかったけど、小学校一年生から寄宿舎は嫌だったとそう言った。私も教育委員会にも学校にもたくさん叩かれ、実は未だに小学校の敷地に入ると吐き気と震えが出る。

でも、親子で納得している。

よく行くコンビニもスーパーも小学校の六年で顔を売ったから息子が多少目立っても不審者扱いされないし、ヘルプしてもらえたり、あたたかい言葉をもらえたりする。

 

間違いではなかった。

 

他人から見て、ぼろぼろになった私も息子もみて親の見栄や都合で無理したから、

可哀想に。

最初から支援学校に行けばもっと。

 

とか思われているかもしれない。

 

けどそうじゃない、選んだ道だから得られたものもある。

 

だから、外野は口を挟むべきじゃない。

親が、本人がどの時間軸をみて決めたのか、何を大事にしたかったのか。

どの道を選んでも失うものは確実にある。

 

息子は支援学校を楽しんだし満足してるが普通でも親と過ごす時間、年齢よりずっと精神年齢が低く、介助なしで生きられないこが寄宿舎で最低限の身の回りのもので、好きなものすら好きなときに食べられない、テレビは小さな子が優先的そんな日を頑張り抜いた。

夜中熱を出したときどんなにか不安だったか。

 

親は決めても、その道を歩き出しても、

これが最適解であったのか。

いつも、いつも不安で悩んで、何かあれば自分を責める。

 

私は自分の決断が最適解であったと胸を張れないが、あの時やれることはこれしかなかったしまずまずだったのではと思うことにしている。

 

だから。

今悩んでるお母さん、お父さん。

たくさん悩んで、

悩んだ分だけあとの後悔は軽減できる。

そして誰かになにか言われても、一番子供を愛してより良い未来を願っているのはあなただと思う。

だから大丈夫。

あなたの決めた道はあなたのこどもには一番だと思う。

もし、例えば間違いだったと思ったらそのときまた考えればいいと。

 

そう私は思う。

 

自分の子がうまくいった道がすべてのこにうまくいくなんて思わないから息子の道は例え話程度にながしてくれたらなーと思う。

 

そして就学相談の担当の皆様。

どうか、どうか、泣かさないであげてください。

私は就学のたび精神を病んでもうボロボロです。

言った方は覚えないでしょうが言われた方は10年たっても息苦しくなるくらいにはダメージをおっています。

 

 

 

モニタリング会議

障がい者本人、親、支援者

が集まりモニタリング会議が3ヶ月に一度持たれています。

 

家、デイ、訓練、ヘルパーがそれぞれの場面での成果や目標、困り事、連携したいことをケアマネージャーを議長に話し合う会議です。

 

これでも全力投球で各所が頑張ってくれているので、毎回何かしら成果やステップアップがあり。

そして毎回次回までの目標が出来るわけです。

 

次回までの私の目標が息子にPayPayを使いこなせるように援助すること。なるべく紐付けを減らし、リスク回避をしつつ、一人で移動するとき現金を持ち歩くリスクを押さえ、いざというとき遠隔で支援出来る手段をもつため。

 

私、自らの手帳申請を頼みつつも。

自らの事だけを考えては生きていけん。

まぁ、大人で親だと誰しも似たり寄ったりで当たり前かの事

 

そして、大変疲れるんだけど、大変救われる。

わかっちゃいるんだけど、たくさんの支援に囲まれているのが可視化される会議は学校という守りから出てしまってからは特にありがたいし、助けて🆘を届けられる。

 

今日は訪問看護もあってたっぷり一時間息子のメンタルケアをしてもらえた。

何を話しているかは聞かないし、同席しない、息子が親に聞かれたくない話を出来る大人はたくさんいた方がいい。

 

ありがたい、ありがたい。

 

おもいながら。

 

心の片隅に、子供が一人立ちして育児を終えた同世代の事が羨ましくもある。

キラキラしてるなーと眩しい。

 

多分、ずっとずっとずっと私には息子への支援への課題を考えて、見守っていく未来が続いている。

昔、

不安に感じていた未来が今ここにあり、

不安に感じる未来がきっとやってくる。

だけど一人じゃないのはやっぱり救われる。

未来はいつも怖い

これが障害をもつ子供を育てる親の本心なんだよ。

きっと。