きみと歩く時々走る

重複障がいのある息子とのこれまでと今

生きる場所を選ぶ。幼児編 療育

息子の手術が一段落したのは5歳くらい。

息子の緊急搬送がほぼなくなったのが10歳くらい。

 

 

というわけで。

私がほぼ家に居なかった2歳を過ぎた辺りから、やっぱり療育を考え出しました。

その頃には私の情報収集活動の基盤はできて、無理しなくても良くなってましたし☺️

 

 

どうして療育に?

と問われれば。リアル親の会や、入院で、さすがに他の病児を見るわけで、

おや?これは病気のせいではない。

と気付き、いやこの子は病児ではあるが障害児の世界で生きていかなくても大丈夫なはず❗という希望的観測による否定もないまぜになり苦しみ。

ずっと定期的に市の保健師さんが療育を勧めに来るわけです。

いま思えば、なかなか機能した機関だったと思うし、うちはそこが簡単に見つけ出せるくらい療育が必要な家庭だったようです。

 

まず、療育という場所に繋がるまでの大変さをTwitterなどで見るにつけ、ラッキーだったのだと今では思います。

 

単発理学療法訓練から始め、集団療育に足を踏み入れたわけですが、

実は、脳内出血からの脳損傷はあったが、算数はしんどいかな?とは言われつつ、医者たちもまさかこんなに言葉が出ず、歩けないとは予測しておらず、お母さん甘やかしすぎてない?

って慰めとも励ましともとれる言葉をかけてきていたし。

同じ年齢のたいてい一緒に病院にいた子のお母さんには、親の育て方が悪いんだよ。読み聞かせは?テレビも大事よ。

とか言われていました。

私は、哀しみと、情けなさと、そして希望で。

二歳半までは待つ!

自力で歩くし、絶対しゃべる❗

と。

なんごすら口にしない、つかまりだちすら出来ない我が子を毎日自己流地獄の特訓で伸ばそうとしていました。

思えばかわいそうなことをしたが、お母さんの甘やかせ過ぎよう❤️

といわれたらそうなる。

 

 

 

そして、覚悟を決め療育に足を踏み入れた。

その時はどうにか我慢したが、帰って泣いた。

 

批判をあえて受ける。

 

そこは。

 

障害児の世界だった。

見るからに障害児しか居なかったし。

ふと冷静に見れば息子は障害児然としていた。

 

のちのち、療育ママはほぼみんな、初日に泣いたらしい。

この世界でいきていくのだと。

怖かった。

 

しかし、泣いている時間すらないのも現実。

毎日母子通園。

お弁当を食べるのも療育、午後から訓練があるときもあれば、なれると数時間子供だけの預かりもあった。

イベントはたくさん、泊まりの旅行まであった。

 

同時にここで、私は仲間と勉強会などのない、単なる茶話会ONLYの親の会を作った。

小学生くらいまではたまにランチしたりしたのだが、障害児の親は忙しい。なかなか会えなくなり消滅。

ただ、あの時期忘年会❗といって子供を旦那に預けて飲みに行けたのはあの親の会の飲み会二回だけだった。(笑)

忘れられないくらい楽しくて、みんなはしゃいでいた。

 

いま振り替えると短い期間だったがかなりたくさんの経験がそこにはあった。

年中から保育園に行くことになったのだが、長くなるのでその話しはまた改めて。

 

療育の世界にあしを踏み入れるのは怖い。

泣く。

辛い。

それは情けないことじゃないと、今そこにたつお母さんにはいいたい。

みんな同じだよ。

数年してね、ようやく話せるようになる。

その時は口にすら出せない。

申し訳ない気がして。

けどね、この時期にこの場所に居られたことが確かに今では良かったと思うのです。

行く機会があるなら、声をかけられたら、

行くべき場所なんだなあと今なら思うのです。

あの頃の私、たくさん泣いたけど。

間違ってなかったからね。

よく通ったよ。

しんどかったね。

毎日毎日、刷り込むように

あなたのお子さんは障害児です❤️

という無声のシャワーをあび、障害児のために作られた遊び場には あえて言おう、

普通の子

が溢れていて、うちの子達が行くと迷惑そうにしたり、さっと消えていくような苦しみを味わう事がたくさんあったよね。

あれも、生きていくためには必要な偏見と差別の階段だったね。

本当は必要なんて書きたくないけど。

なくならないもんね。

 

本当‼️

日本!

かわんねーな!

政治家、

障害児の親は明るく元気だから、強いから

大丈夫なんて思うなよ!

 

あら、失礼。

😊😊😊

ということで次は保育園編

社会の荒波にもまれる前に叫んで景気づけいたしましたの。

 

では、ごきげんよう❤️(笑)


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