きみと歩く時々走る

重複障がいのある息子とのこれまでと今

生きる場所を選ぶ。生徒編。中学時代

一年生の時のクラスメイトが息子の未だに親友です。息子いれて三人。

みんな中学から支援学校に来ました。

 

小学校まで辛い思いをたくさんしてきたらしく。

最初のころ三人で話し合い、三人で泣き、三人で怒りを発したらしい。

息子が俺がそこにいたら絶対許さんかった。助けてやった❗

と怒りながら、友人のために泣いたらしくて私は嬉しかった。

 

それでも、傷は深くて私への暴力がおさまらず、精神科を受診し、環境を変えるのはかなりよい方法です。といわれ、中学二年から寄宿舎に入れた。

同じくして、その年の担任が神がかった素晴らしい先生で、息子の表情も態度も急速に変わり出しました。

子供のメンタルケアを学んでいるらしく、息子にも必死で向き合ってくれました。

交換日記や、イライラの逃がしかた、どう対応するとパニックが長引かないか、色々試行錯誤してくれて。

もう、私はこの先生を神と思っています。

今もです。

どんな医者より、この先生が息子を変えた。

私は殴られなくなった。

一番難しい時期に、我が家は暗黒を抜けました。

 

支援学校はひとくらす生徒三人で、担任、副担任。

校外学習などには一人に一人は担当がつく手厚さ、しかし、熱が出たりするとよびだしがいきなりかかります。

私も毎日ではないので、この呼び出しには対応できたし、無理なときは旦那が早引きして迎えに行きました。

通常は、日曜日のよる、寄宿舎におくり、金曜日に迎えに行く生活。

これが、中高5年続きました。

中学に、なりびっくりしたのが息子がスポーツが好きだったことと、負けずぎらいを発揮し始めたこと。

心臓が悪いから無理はできなくて、記録会とかには参加させられなくて、隠れて寄宿舎の当直の先生の前でだけ泣いたらしい。

寄宿舎は、ほしかった兄弟の擬似体験や、バス通学ではなかなか深く話せない先生との会話を増やして、息子を確実に成長させました。

学習も、明らかに先生の作品ではない絵や、書き取りを持ち帰り、私は泣きそうだった。

ああ、これが息子なんだなあと、はじめて遭遇した本当の息子の内部がわかったのです。

幸せ、

 

ただ、辛かったのは‼️

ガソリン、高速代金。

かるーく毎月5万を越えていきました。

車の消耗も激しい。

修理、修理、買い替え。

体力も週二回とはいえしんどかった。

でも。

毎日の人もいたし、片道三時間以上の人もいたから我が家はまだまだあまちゃんです。

高等部。

これも同じく。

ですませられる気もしますが、卒業後のための動きなどを中心にまとめてみます。

 

なんだか、内容が軽くなってきました🎵


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