きみと歩く時々走る

重複障がいのある息子とのこれまでと今

自分が決める

女子はトイレ一緒に行こう❤️

お揃いにしよ❤️

ねぇ、どっちにする?

どうする?

する?

しない?

 

 

そんな空間で育ってきていることがある。

 

私は高校を選ぶとき特殊な場所を選んだため、中学の友人はいなかったし、なんなら同じ地域の出身者もいなかった。

だから、受験からひとり、入学式も一人、さらに少しの間親元も離れたから親戚の家にお世話になってはいたが、こどくでもいた。

これは私の持病が悪化したことにより解消された。

さらにすぐ、ゆうじんも出来たけど、私はあまりトイレ一緒にタイプではなかったし、

その学校で親しくなる友人は学校も特殊なら変わったタイプの人も多く個人主義が強かった。

楽だった。

 

しかし。

しかしだ!

 

どうする?

って言える同性の相手がいるのは実は更に楽なことだったのを知った。

 

息子が産まれた瞬間。

私は少なかったがそんな相談が出来る友人が0になった。

寝る間を惜しんで20年前に勉強してホームページを作ったのは、

どうする?

って話したかったのだ。

付き添い入院にドライヤーもってく?

そんな小さなことだ。

手術した方がいいかな?

なんてのはきけない。当たり前だ。

 

他人に

どうする?

って聞けないことだらけのなか小さなことを同じ立場で話せるのは安心できた。

今みたいにblogもTwitterもLINEもスマホもなかった。

入院するとパソコン持ち込めないから、連絡がぶつりとキレる。

ガラケーでたまに、メールアドレスを知ってる人に近況を話し、その人のホームページのレンタル掲示板やら、レンタル日記やらで仲間に報告して貰う。

そんな時代。

母は孤独だった。

それでもホームページをもつ私はまだましだった。

あの時代に同じ病気の仲間を探すなんて至難の技だったのだから。

わたしたちは現実から逃げるように、

どうする?

ってはなしをし、そこに紛れるように深刻なはなしをさも楽しげにきゃいきゃい話していて、それが息子の学校にばれて、校長室に呼び出された。膨大な日記を全てプリントアウトして積み上げ赤ペンで添削されていた。

ちょうど、blogが一般化して私もblogに乗り換えたじき。

ネットでのトラブルが顕著化した時代だった。

 

私はほぼ強制的にネットの世界から消えた。

自分のところを閉めるだけではなく友人の所にも書き込めなくなった。

明らかに不自然な見回りをしている人物か組織があるのを友人みんなから指摘されたのだ。

私の書き込みを見張っていたのだろう。

怖くて、もうしわけなくてやめた。

校長には次、blog始めるときは内容を先に確認させてください❗といわれていたし、友人もがっつり見張られている。

今のお母さん達も身バレしたら呼び出されるのだろうか?

 

行事の日付で特定されるので、行事はあったのとは別の日にアップする。

みなさん。

これが私の受けた学校の常識らしいです。

守ってますか?

 

そんなわけで、私は友人とのやり取りは個別メールのみになり、そうしてるとやはり疎遠にもなり、病んだ。

 

そして去年このblogを校長先生の検閲を受けずに始めた。

 

自分が決めた‼️

 

ばれたら呼び出されるだろうか?

あれから15年。

ようやく、TwitterInstagramなどのsnsに復帰できて、息子とのショップにもそこからのお客さんが来てくれるようにもなった。

結局、小学校はわたしや息子を追い詰めるだけで、助けてくれたのはネットの世界だった。

 

私は未だに小学校に行くとパニック発作が起きそうになる。

避難所のひとつが小学校なんだけど。

どうする?

いけないよね。

 

 

私は残念だけどいけない。

 

 

どうする?って話せる相手があるのとないのはまるで違う。

今つらい局面にあるお母さんがすこし寄りかかれるひととつながれていますように。

 

そして、がんばれ👊😆🎵

自分で決めなきゃならないことはやっぱりあるから。

そこをどうにか自分で決められるだけの力をふりしぼれますように。

 

☝️ほぼ自分へのエール。