私は
知的、や重い発達障がい
と
内部障がい、身体、聴覚、視覚障がいなど知的なものをともわないもののみの障がい
を持つ人は分かり合えないところがどうしても生まれると思っている。
そして、
今までの経験から
下にみている傾向を感じる。
そして、内部障がい者は
時に、私は障がいといっても病気だから。
といって障がい者というレッテルから逃げたがることがある。
発達障がいでも、IQが高い人にはその傾向があるのかもしれないともおもうし。
中途障がい者の中には
生まれたときからの障がい者
をしたにみてる人もいる。
つまり、
健常な人々に、外見や、学歴、仕事により人をランク付けしたがる人がいるように
障がい者がみんな一枚板ではない。
とおもう。
息子は全てを網羅してしまったからどこにも今、ベストな拠り所がない。
そして、当事者だけでなく親にもそんな人はいるし。
差別じゃなくても
保護者として、私にも拠り所がないのだ。
私が今までで一番悲しかった息子への仕打ちは
心臓病の仲間だと思っていたこからの陰湿なイタズラと。
その親の
同じレベルの動きで遊べるおともだちとの時間は楽しいみたい✨
田舎の病院信じずに⬅️息子の病院
都会の病院にセカンド・オピニオンしたからここまで育ったと思うし、その努力しなかったらもっとひどくなってたと思う。
やっぱり親の愛だよね。
とか。
私には刺さる言葉だった。
もっともっと酷いことはあったけど健常な人々にされたことはなんだか、しかたがないとか諦めてしまう自分がいる。
しかし、
仲間だと信じていた。
そんな人たちだから辛かった。
そんな人ばかりではなかったし。
だから哀しかった。
頑張ってその場所にしがみついていた。
息子に会うたび小馬鹿にしていたその子や仲間達が、順調に中学、高校に進み
体力的に無理が出来ないから、頭で補える仕事につきたいなんて進学校に進んでいくなか。
息子は支援学校に通って、
介護サービスを使うようになった。
若い会員のお母さんはキラキラとした目で進学や就職していく彼らの母を見つめ、私の前で目を曇らせて視線をそらした。
哀しかった。
確実に我が家は見たくない現実で失敗例で、なりたくない未来なんだ。
同じ立場だって思っていた私も格付けしていたんだとおもう。
だから、私がより哀しむのはお門違いなのかも。
障がい者と健常者と分けて考えるのは危険だ。
障がい者の親にしか分からないことがあるという言葉は更に自分を傷つけ、人を傷つけるかもしれない。
難しい。
本当に難しい。
どういうこころもちが最適なのか、
そして
重複障がいを持つ場合の本人、家族は本当の意味の居場所や心の拠り所をどこに持てばいいのか。
ある程度しか見えなくて、ある程度しか繋がりがないネットは最適なのかな。
私はそんな風に思うのだけど皆さんどう思いますか?
なんだか、まとまりの無い話となりました。