オリンピックの見学は無しにしたのに、
パラリンピックの見学を強行する。
児童、生徒の観戦について私は謎というか、気持ち悪いものを感じる。
24時間テレビをみて感じるザワザワに似ている。
障がい者=感動
をなんか期待しすぎではないかと。
障がい者は健常者に感動を与えたり、五体満足なのにと奮起を誘う存在ではないし。
頑張ってる障がい者。
それ以外を
頑張れていない障がい者。
と認識してしまいそうで怖い。
義足で走り抜けるランナーをみて
片足ないくらいで車イス?甘えてんじゃない?
と思われたくはない。
障がい者には何か秀でたものがある!
という認識もちょっと怖い。
見つけてやれなかったって私はたまに自責の念にとらわれるんだけど。
よくよく考えたら。
私は?
と思う。
オリンピアンでもなければ芸術家でもない、カリスマなんとかでもない。
障がい者に。
ではなく。
障がい者のなかにも健常者と同じように。
なのだ。
でも。
発達障がいなどは特に
こういう子はなにかすごくずば抜けたものがあるんだよね‼️
という圧力がある。
発達障がい児を育ててる親はきっと少なからず体験しているはずだ。
そして
こういうお子さん⬅️障害児と過ごすことは、心の成長に大事ですから。
とか言われて、よくわからない交流会が支援学級や支援学校にはある。
道徳の教材?
優しくしてあげる?
いたわってあげる?
私は障がいなくて良かった❗の確認?
なんか、モヤモヤ。
コロナ禍の今、
パラリンピックを観戦に行き、感染して、もし
亡くなるとか、後遺症、障がいをもつことになったりしたら。
その子は、その親は。
どんな気持ちを抱くだろうか?
その応援はパラリンピアンの気持ちをあげるものになるのか。
私はとってもモヤモヤするんです。
今、大事なの?
オリンピック見に行って、パラリンピックも。ならまだ理屈として受け入れるけど。
私はパラリンピックだけ❗ってのにあるいみ差別を感じます。
そうおもいませんか?