きみと歩く時々走る

重複障がいのある息子とのこれまでと今

しんどさを独占すること

しんどいこと、辛いことは分け合って。

 

と家族の合言葉みたいなのがあるが。

 

あれは少しだけ違うと思う。

本当にかかえたしんどさや辛さは分け合えない。

 

例えば息子が障害を持っている。

息子のその辛さは彼にしかわからない。

障害児の母の気持ちは本人の息子にもわからない。

障害児の父の気持ちは私にも息子にもわからない。

 

話し合ったところでなくならないんだ。

私が息子の本人の苦しみを聞いたら、むしろ私の辛さはより強くなる。

 

軽くはならない。

 

 

むしろ、別の苦しみを背負う。

しかし、話すことで辛さがあるのを知ってもらうことで得られる満足感はある。

頑張った‼️と認めてもらえる嬉しさはある。

そして、今の自分の抱える苦しみとおなじくらい家族が苦しんでいるのを知ることで労る気持ちは生まれるし、労りは苦しみと真逆にある幸せだとか喜びだとかを与えてくれる。

そして与えたくなる。

 

 

ただ。

苦しみは自分だけのものだと思う。

独占していい!

自分は苦しい‼️とさけんでいい。

 

似たような境遇の人がいたとして、その人が苦しみに打ち勝ち前をむいていたとしても。

自分が打ちのめされて、膝をついて地面に突っ伏して泣いてはいけない理由にはならない。

どうしても、どうしても譲れないことや、耐えられないこと、胸が詰まることはは人により違うし、違って当然だ。

 

泣きながら、弱音吐きながら、這うように生きていく人もいるし。

笑顔が弾けるような陽気さで何もかものりきりながらある日、空に飛び出し消えてしまう人もある。

 

友人や家族で

話し聞いてあげたから軽減されたでしょ?

なんていわれてもそんなわけないじゃん。

 

それでも私たちはわかっていて、ときおり話し、聞き、聞いてくれて楽になったよって言うし、良かった❗とかいわする。

 

お互いそんな軽いものだけを持っているはずない。

 

わかってるよ。

 

貴方の苦しみが変わらないのは。

私の苦しみが変わらないのは。

 

ただ。

聞いてもらうとやっぱり自分が苦しいんだなとはわかる。

優しい飴玉をもらって、微笑んで踏ん張れるときもある。

優しく背をさすられ純粋に泣けるときもある。

苦しみに色がつく、実体があらわれる。

自分が苦しみを乗り越えるための手段が少し見えることもあるが、ないときもある。

 

聞いてもらったのに、前向きになれなくて申し訳ないとかおもわなくていい。

 

だよね。

私も苦しい

けど

貴方も苦しい

私が踏ん張っているからといって

貴方が倒れちゃいけないわけもない。

 

どっちかが倒れたら、とりあえず元気な方が手をさしのべて握ろう。

とりあえず、生き残る方向に進めるように知恵をだそう。

 

どうにかならい。

いままでもどうにかなったやろ?

たのしいことでもしよか?

おいしいものでもたべよか?

苦しさや悲しさはなくならないけど、

楽しさや喜びを一瞬でも満喫しよう。

 


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青い青い空に飛び出したくなる衝動はどうにかおさえないといけない。