きみと歩く時々走る

重複障がいのある息子とのこれまでと今

選択肢の数じゃない。選択肢の発生する場面なんだ。

人生には沢山の岐路があり、沢山の選択肢がある。

その数は多分、みんな似たり寄ったりなんだと思う。

 

親としての選択肢も障害児は選べるものが少ないとか言うが。

いやいや、

かなりあるのだ。

 

そもそも

生後数日で、

この子を生かすための手術をしますか?

それとも可能性も低い、今後一生治らない。

ならばこのままでできる限りの穏やかな時間を過ごしますか?

なんて選択肢を突きつけられることは健康に産まれたらない。

 

息子が歩んだ道は、そして歩む道は。

障害がない人より狭いかもしれないが。

彼が歩んできた道はいつも親にとって苦しい決断がつきまとった。

 

お受験という言葉があるがそれはしたいかしたくないかをまず選べる。

障害児の親は普通にみんなが貰える公立小学校に入る資格すら、

就学前相談というのをうけ、何度も面談をうけ、校区どころか市外の免許がなければ小学生から施設やら、寄宿舎やらにいれなきゃ通えない学校も強く押される。

そのまえにも幼稚園、保育園にたいていの親は叩きのめされて、フラフラしながらその日をむかえる。

 

うちのこはこんなにダメなんです❗

と言わされる場合もあるし、

おたくのお子さんあれもこれもできない。

まさか、普通のレールに乗れると思ってました?

と言われることもある。

 

頼むからせめて親と二者面談に❗

と望むも

お子さんの様子をみたいのでと三者面談となり

彼、彼女の前で容赦なく聞かれ容赦なく言われる。

 

楽しい家族旅行すら、あちこちで諦めようの決断がつきまとった。

 

出先で困ったかおのかたに出くわすたび、謝りながら逃げの道を選ぶ。

 

自主的にください!

と選んだ手帳やら手当てやらサービスをうける時も息子の小さいときは

自分の子供をネタにお金をむしりとるみたいに言われたり、自分の子供の面倒くらい自分でみられないか?みたいに言われたり、

なんだかいつもすみませんといいながら受け取った。

 

そういうたくさんの岐路があり、決断があり今がある。

決断が少ない❗の意味は別にあるんだよ。

人生をあまり選べないよね?

ってご意見はごもっとも。

私も思う。

 

ただし、思うのは。

私たち親がしてみたい、したい

この子が輝ける決断や、幸せになる決断

そこまで行くにはまだまだ時間かかりそうだよね。

とりあえず、泣きながら家に帰る。

死にたくなる。

そんな決断を少なくして貰えるならそちらからお願いしたい。

 

 

そして輝く障がい者をみて、

あの人たちは、親が、本人があの道を選び。

努力し。

勝ち得たのだ。

なんもできない障がい者は怠けてる。

親の努力も足りなかった❗

障害ある人には秀でたものが必ずあるんでしょ!見つけてあげられなかったの?

というのはやめて。

本当にやめて。

ただ歩く、ただ排泄する、ただ話す。

このような日常生活をおくるためにどれだけたくさんの選択をし、努力し涙を流し、つかみとったのか。

そこがパラリンピック金メダルきゅうの人もいる。

献身した親もいる。

 

知って欲しい。

 

息子の友人には出来る障がい者がたくさんいる。

もう、そりゃあ自信を失うくらい、

でも、三歳の息子をみて思い描いていた未来を思うと息子はその何倍も上をいってる。

たまに親ですら思い返さないと凹みそうになる。

パラのとしだった今年は比較的障がい者が取り上げられた年で、逆にそれが苦しかった年でもあった。

きっと、障がい者のかなりの割合の人がそう感じたと思う。