死ぬほど忙しい。
まじで?死んだー!
死んだ方がまし。
こんな言葉が心にあまり引っ掛からなくなったのはいつ頃だろうか?
息子が生まれてから暫くの間、
死の距離があまりに近すぎて、この言葉に過敏になりすぎていた。
私達の界隈で、子供を亡くすことは天使になった。
と言っていたから、天使の羽が背中についたデザインの服やリュックは恐怖でしかなかった。
実際、こうした言葉にピリピリしているあいだに息子の仲間はどんどん減っていき、死の気配はすぐ足元まできていた。
手術の死亡率が成功率よりはるかに高かったのも、
部屋にがらがらと蘇生ワゴンが運び込まれ、私が部屋を追われたのも、
カーテンの向こうで
自発呼吸止まった❗
アンビュー❗
とガタガタし始めたのも、
家族に連絡を❗と医師にいわれたのも、
ICUで管理されながらも痙攣が何時間も止まらない、更なる脳損傷を覚悟しなきゃならないのかということも、
全部からあげくんに起きた事だ。
だから死を軽々しく笑いながら使うことがあの時期は聞くに耐えなかった。
でも、いま
あー!死んだ!100%死んだわ。
とゲームで失敗した息子の部屋から絶叫が聞こえても聞き流せる。
食べすぎた。しにそー。
という私もいる。
死を軽々しくつかえる時期は、
死が自分からかなり遠いのだと学んだ。
しかし、私は息子の付き添い入院の時はいつも浅見光彦を読んでいた。
何故か?
何故かはわからないが、病院の売店の本売場には必ず浅見光彦がいた。
手放してしまったが、私はあの時期までに発刊された浅見光彦をほぼ読破しているとおもう。
病院の売店の本は
これがなぜなのか知っている人がいたら教えて欲しい。