きみと歩く時々走る

重複障がいのある息子とのこれまでと今

ありがとうと言う勇気

からあげくんを産んで、私は頭を下げて下げて下げまくった。

今もとにかく頭を下げながら生きている。

皆そうだよ❤️

と思うかもしれないが、障害者の親になったらわかる。

きっと想像している何倍も頭を下げてこそ普通。

少なければなんだか感じわるいわね?

 

たとえばほんの少し車イスを押して道を歩く。

それだけで私たちはありがとう、ごめんなさい、すみません、助かりましたを連呼している。

鎧を纏うようにありがとうとすみませんで武装するようだ。

 

 

ありがとう

すみません

 

感謝と謝罪 謝る

どちらにも謝が入るが、謝るは元々誤るからきたらしい。

似て非なるものだ。

 

日本人のすみませんには大きく分けて

ありがとう

ごめんなさい

の二通りの意味がある。

 

わたしが感謝に使うとき

どうもこの中間に気持ちがある。

 

感謝します、お手数かけてごめんなさい。

いつもありがとう、助けてもらうばかりでごめんなさい。

 

ありがとうございます🍀

にっこり笑ってお礼がいえるときは本当に気持ちよく助けていただけたり、私のメンタルがしっかりしている時。

 

すみませんでした。すみません。

頭をバッタのように下げたり、深々と地面にのめり込む勢いで頭を下げる。

そんな時、私は明らかな侮蔑や面倒だと言う態度、時には小さな舌打ちや、冷ややかな視線を受けながら援助をしていただいているのだ。

純粋に謝る場面が続いた1日の終わりには、気持ちよく助けられても自分が惨めになっていて、優しさがあまりにも身に染みすぎて

こんな私たちにすみません。

となることもある。

 

なるべくありがとうといいながら生きたいと思っているが、後者のように冷ややかな援助に対して笑顔でありがとうございました。

というには勇気とエネルギーが必要だ。

 

助けていただくのは、誤りではない。

 

しかし、私達が助けていただかなくてはならない場所になるのをわかっていながら出かけたのは誤りだったのではないか。

当たり前に助けてもらおうと思いすぎていないか、図々しかったのか。

 

頭を下げ続ける姿をからあげくんはどうみるか?

気持ちを強く持たねば外出できなくなる。

 

私は以前、ありがとうをいうのにこんなに面倒くさいことを考えるような事は無かった。

むしろありがとうを押しうるように使っていたかもしれない。

私はおかしくなっているのかもしれないし、ちょっとつかれてるだけかもしれないし、卑屈な嫌な人間になってしまっているのかもしれない。

 

少なくとも、

ありがとうという勇気

なんて言葉が私の中には無かった。

 

私は自分がそんなことを考えながら、からあげくんにありがとうは忘れてはいけない。

当たり前だと思ってはいけない。

とおしえている。

 

なんだかモヤモヤしている。

だけど私は頭を下げて生きていくつもりであるのは揺るがない。

 

助けがないと生きていけません。

どうか助けてください。

舌打ちしたり、眉をひそめるのを控えてくれたら本当に嬉しいです。

 

卑屈だと思われるかもしれないが本心。

 


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