私は紙の育児日記のあと、
ホームページビルダーというソフトを買ってホームページを作った。
よくもまぁその時間をひねり出したと思うが。
情報が欲しくて、仲間が欲しかった。
blogすらない時代には自分でホームページを作る位しなきゃ私の欲望は叶えられなかったんだ。
寝る時間は削られたが、安息の時間が増えた。
そして、つぎはレンタル掲示板やレンタル日記と言うのをつかい、チャットもした。
そのうちblogが始まり、私は初期の頃のblogを使っていた。
ホームページと連結させて。
今と大きく異なるのは、その時代にはスマホがなく、パソコン入力のみ、のちにガラケーでも出来るようになったそんな時期だった。
しかし、当時は病院内でパソコン、携帯はご法度で入院すると更新が出来なくなった。
なので、入院前には入院してくるよ❗多分大丈夫。今後は○ちゃんに伝言するよ❤️みたいな連絡が私達界隈では約束だった。
いきなり連絡とれなくなる=お空にいった
というのがあるような仲間達だったから。
まあ、そんな繋がりが今のTwitterやblogやInstagramみたいに私達の世代の心を支えて、最新医療知識も得られるコミュニティーだったのだ。
しかし、私はからあげくんが小学1年の最後にこれをいきなりやめた。
記録も残さず慌てて消去した。
担任経由で小学校にばれて、
ちょうどネット犯罪等に煩くなった時代だったこともあり揉めたのだ。
わたしもコメント欄を5年ほど遡らないと分からない程度にはすんでる場所や個人を隠していたし、すぐ消すつもりのうっかり消し忘れた息子の写真が一枚どこかにあったこと、むかしのホームページと連結してたためホームページ時代に知っていた人にはわかるかも、という詰の甘さがあった。
信じられないだろうが初期のホームページは比較的本名で開設する人がいたのだ。
もちろん途中でハンドルネームにかえた。
別の学校の友人との会話を日記に描いたのも許可をとっていなかったが、私が特定されても学校関係者でなければ友人が誰かまで分からないと甘く考えていた。
私が悪い。
学校には謝ったし。
保存すらせず最速で消したのは私の最大の謝罪のつもりだった。
でもやはり独りよがりだったのだろう。
担任から連絡が行った友人には電話の謝罪で直接の謝罪を断られ許されないまま今に至る。
これは私の罪と罰。
最低だ。
この事に関しては本当に反省し、未だに苦しい。
しかし、私の罪はこれだけと認識されていなかったらしい。
私が、行事にあわせてアップした日記は学校の生徒みんなを危険にさらしたらしい。イベントを総合すれば日にちで学校特定が出来る!らしい。
そして入院前にまで書き込んでることにネグレクト、ネット依存と問題視されすべての日記やblogがプリントアウトされ赤線やコメントされ何枚かは教育委員会に提出された。
最終返して貰った日記は大きな紙袋二つ分はあった。全て焼いた。赤線やコメントが胸に突き刺さったのだ。
赤線一本がナイフのように私を刺して、心から赤い血がつーっとながれた。
怒りなんかはなかった。
とにかく傷だらけで、ごめんなさいと泣いた。
それらは私をひどい母だと責めていた。
そして問題視していた。
そうなのか、私は教育者からみたらこんなにもできの悪い、ひどい母なのだ。
滅多打ちにされた。
ザクザク刺された。
リアルな包丁を自分の胸に突き立てたくなるようにアカセンだらけだった。
持ちこたえたのはとんかつくんの存在だ。
打ちのめされた私の代わりに後処理をしてくれた。
何があろうと味方でいてくれた。
だから頑張れた。
私は最後に行事当日に日にちがわかるように日記をあげるのは非常識な行動であるため禁止、また今後blogをするときは記事をあげる前に学校で検閲を受けることを約束させられた。
私は更に傷ついた。
もう救いをどこにも求められなくなった。
そしてわりきれなさと哀しみで10年以上ネットからはなれた。
リアルも、ネットも友人はずいぶん減った。
支えを失った私が病を得るのは早かった。
今もblogは学校検閲で行事の日にちをフェイクで書くのが常識なのだろうか?
時代は変わったと思うし、もう在学していないから報告も検閲も要らないよね?
私はもういっそこのblogがばれてもいいとも思うがやっぱりすこし怖い。
怖い。
だから書いたけどいつか消すかもしれない。
それは意外と早いかもしれない。