ミニまる日記の次は
なんと。
なんと!
父である
とんかつくんの業務連絡もしくは実験記録
的な時系列箇条書きの闘病の記録が二冊ほどある。
とんかつくんも、私まるも技術者養成学校とも言える高専の卒業生だ。
教育とはすごいもので、私達の育児にはこの経験が遺憾なく発揮された。
その話しはまた別の機会に書こうと思う。
本を読むこと大嫌い、字を書くことも嫌いなとんかつくん。
寝る時間も削り出すようななかで、出産直前の様子から日記を欠かさずつけていた。
もしかしたら、とんかつくんもこの記録だけがからあげくんの生きた証になると死を覚悟していたのだろうか?
私には辛かった記憶がいくつか張り付いているくらいで実はあまりこの時期の記憶がない。
出血多量とショックで食事もままならず、麻酔が効きすぎて下半身の感覚がなくなり早めにこうかくがい麻酔を抜いたことにより次は激痛に襲われてもいた。
ということすらとんかつ日記から思い出した。
(こののちこの記録をとんかつ日記と書くことにする。)
出産後、とんかつくんのすることは多岐にわたった。
役所、会社での書類提出や手続き、交替勤務しながら県外の病院に通い、必要なものを買い出し、私の様子も見に来る。
さらに、とんかつ日記内に歯が痛かったのが何度も出てくるからよほどだったに違いない。
そして、生後五日目のからあげくん術後。
24時間の病院での最低三日程度の待機を求められたとんかつくんは仕事が休めず。
当時遠くの大学にいた私の弟が変わりに待機してくれた。二畳ほどのみんなが出入りする給湯室の小上がり和室が待機場だ。
人間扱いではない気がするそんな環境でたった一人詰めてくれた弟には感謝しかない。
そして、色々助けてくれながらも休むことを提案しなかったとんかつくんの職場に今だからおかしくない?という気持ちがわく。
意地でも休む❗といえなかったとんかつくんには私は理解できるのだ。
そこに裂くだけの思考力というか、対応能力はもう無かったのだろう。
それ程に若い私達は混沌と混乱の渦の中にいた。
だからこそ、その次の術後からとんかつくんは介護休暇と言う無給の休暇を勝ち取ってきた。
それは、親の死に目に会うための仕様であり一人当たり一回親に限る❗という曖昧な基準があったらしい。
のを闘い認めてもらい、いまや会社に定着する制度となった。
だからなのか、闘病の記録をファイリングした中に職場の従業員手帳が挟まれて保管されていた。
しかし、日々の事をこなし、いきる可能性の低い我が子と真っ白い顔で歩くのも精一杯な妻をかかえ、とんかつくんは苦しかっただろう。
一度だけ仏前で泣いたと話していた。
とんかつくんは強いメンタルをもつ人だ。
彼が泣いたのは父を亡くしたときとこのときだけだという。
そんなわけで、ICUの面会には二人の父さん候補が出入りしていた。
看護師さんがどっちが本当のお父さん?と噂よと聞かせてくれた。
もちろん本当は分かっていて私をなごませてくれたのだと思う。
ただ、からあげくんはほぼ麻酔で眠っていたが、さめてからも度々やってくる男性二人に
とうさんどっちなん?
と思っていたかもしれない。
弟はそれからしばらく大学を休み助けてくれた。
とんかつくんのお姉さんもよくしてくれた。
兄弟のありがたさが身に染みた。
人間。
辛いこと忘れないが、してもらったことは忘れがちだ。
とんかつ日記はそんな大切なことを思い出させてくれた。
そしてとんかつ日記には本当に少しだけしか感情が書かれていないがその多くが私への労りだ。
愛がそこにあった。
さぁ怖くて開けなかった日記を本格的に開く。
怖さはまだあるが、忘れてはいけないなにかを思い出せるのかもしれない。
しかし、確実に苦しみや哀しみが襲ってくる。
だから日記は月曜日に開こう。