息子は先天性心疾患をもち産まれてきた。
先天性心疾患は大人の心臓病と違う。
奇形だ。
そして、かなり確率高く発生する。
もちろん、重いものとなると確率は下がる。
からあげくんは一万人に一人程度と聞いた覚えがあるがなにしろ昔なんで記憶は曖昧だ。
病名は
完全大血管転位、三尖弁閉鎖、大動脈閉鎖、右心低形成等
簡単に言うと心臓が半分しかない。
お子様に心臓病の方がいるならば完全大血管転位があるので症状的には左心低形成症候群と呼ばれるものに近く、それと同じ治療を受けてきているといえば分かりやすいだろう。
手術は最低三回必要で
ノーウッド▶️グレン▶️フォンタン
という流れだ。
フォンタンというのは実に驚きの修復手術で。
今ある半分の心臓を身体に血液を送り出すことにのみ使い、身体から戻ってきた血液は直接肺に送り込む道を作るのだ。
なんて滅茶苦茶な無理なことを❗
と思うように初期は結果があまり出ず、息子が産まれる三年前は息子の病院では全滅。(ノーウッド経由に限る)
息子の時代では三割という生存率だった。
色々と予後に問題も抱えているものだが、手術しないと一週間の命であったことを思えば素晴らしい手術手技だといえる。
と素人の私は勝手に評論している。
最初の難関ノーウッドのあとに見つかったのが水頭症。
脳内出血がショック状態の頻発した時期に起きていたらしい。
そこから頭に水がたまり脳を圧迫する水頭症を発症した。
ノーウッドのあとは信じられないだろうが胸を開きっぱなしでICUでしばらく管理する。
赤ちゃんの薄っぺらい肉と皮の重さで止まってしまうかもしれない心臓を心臓むき出しのまま管理していたのだ。
気がついたとき脳がずいぶん損傷していたときいても怒る気にはなれなかった。
しかし、取り乱した。
心臓病だけでもかなりのハンディだと思いながら受け止めはじめた私には知的障がいが出る❗と言う事実がこの世の終わりに思えた。
そもそも、身体中管だらけの息子がまた手術を受けてもつのか信じられなかった。
息子は、産まれたときより体重が落ち、皮膚が老人のようにたるみしわしわでガリガリだった。
可愛い❤️と撫でながら、心のなかで泣いていた。赤ちゃんじゃない。ミニチュアな老人かミイラだと。エイリアンみたいだと。
だからね、私は聞いてしまったの。
髪の毛剃るんですか?
って。
剃りますよ。
医者は笑った。
私も笑った。
嫌な笑いではなく、かといって悲しい笑いでもなく。
不思議な笑いだった。
あちこちから聞こえるモニター音にアラーム、完全管理された空調に小児病棟なのに信じられないくらい静かなその空間。
そこに似つかわしい小さな笑い声がフワッと広がったのを匂いすらセットで全てまだ覚えている。
それどころではないのは分かっていたし、返事だって分かっていた。
だけど口にしなきゃいけないくらい私は少しずつ思い描いていた赤ちゃんからかけはなれていく息子の外見にも深く傷ついていた。
だから。
私はほとんど写真を撮らなくて。
その時期の息子の姿は残っていない。
額にマジックで手術のための印がかかれたつるつる頭。
目がぎょろりととびだし。
骨と皮。
チアノーゼで紫色がかった肌色で未熟児用オムツで胸まで覆われていた。
手足は小枝のようで。
あらゆる場所に針が刺さり管が出てモニターにつながっている。
大人用のベッドに小さな息子と、十いくつもの点滴シリンジの機械が並び隙間がない。
写真はないが私の胸をいまも締め付けるくらいには脳裏に映像が残っている。
脳も一度では終わらずこのとき二回、その後何度か手術を繰り返している。
その後、水頭症は色々な障がいを連れてきた。
治ったものや、水頭症由来ではないものも含めこれからはただ無機質にならべてゆく。
指の拘縮
クレチン症
斜視 手術二回
言葉の遅れ どもり
摂食困難
てんかん
肢体不自由
発達障がい
知的障がい IQ39
現在、短距離歩行は出きるが、長距離や、体調不良の際は車イスを使っている。
ても不器用さが残り、
脳は特に算数を司る部位の全滅でかなり厳しい。
肺が弱く、肺炎になると長期戦だ。
そんなこんながむすこ、からあげくんの病歴であり、障がいだ。
これらが、時間をおきながら一つずつ告知されていくのだ。
私は良く耐えた。
息子はよく生きた。
やろ?
そうおもうやろ?
告げられるたびガツンと殴られた気分で。
慣れたりなんてしなかった。
むしろ心が少しずつ削られていびつな形になっていく怖さがあった。
そのうち私の心は削り取られて消えてしまうのかしら?
でもまだ私のささくれていびつな心はちゃんと残っているから、心ってのは案外大きいのかもしれない。
削れた心の私はその場で泣き崩れたりなんてしなくてヘラヘラ笑いはじめた。
人間は辛さが許容を越えると笑うのだ。
笑うしかなくなるのだ。
リミッターなのかもしれない。
本当に壊れないための自己防衛で笑いが出てくるのだ。
誰かを気遣うよりも先に、自分を気遣っている私の中の誰かさんがそうしてくれているに違いない。
そのつぎに、死への招待状が届く。
当日のギリギリ間に合うかしら?って時間に舞い込む招待状に、私は喜び勇んで招待に応じそうになった。
実に魅力的だった。
幸運なことに息子を抱いて登れない柵に阻まれた。
私は息子を巻き添えにした犯罪者になるところであった。
それをやり過ごしても状況が変わらないまま歩んでさらに進むと笑いすらでなくなるらしいと言うのも体験で分かった。
体験してはじめて分かることはたくさんある。
障害児、障害者の母は、
あきらめた時点で試合終了ではない。
あきらめた時点で犯罪者になる。
母性はどんな壁も越えるのが当たり前だと思われているが。
母性があればこそ越えてしまう柵がある。
まだまだ道半ば、
忘れてはいけないと今日も胸に刻む。